既にある幸せを見出す秘訣

あるがままコンシェルジュとして始まったこのブログですが、内容コンセプトは変わらず「一元美」と変えさせていただきました。長年そして今現在も学ばせていただいている「トータルカウンセリングスクール」のコンセプト「一元に生きる」よりプラスからプラスの人生観を私なりにお伝えすべく、このような形にいたしました。 皆様の毎日の笑顔のもと「ほっとできるメッセージ」をお届けしてまいります。

カテゴリ: クリスチャン人生




素敵なおハガキをいただき、その中で心に残った言葉があります。


「毎日は優しさでできている」



朝、まだ暗い時間に起きて、冷たい風を吸い込むことも。

車を走らせながら見上げる空の色も。

わずかな時間でコーヒーを飲みながら交わす笑顔の会話も。


大きな出来事ではなくても、よく見れば「優しさのかけら」が私の周りにはたくさん散りばめられています。


優しさは、与えるものでもあり、気づくものでもある。

そして神様は、その優しさを毎日の中に隠すように、でも必ず受け取れるように置いてくださっているのだと感じます。


だから今日も、私の一日は「優しさ」で始まり「優しさ」に包まれて終わる。

そんなふうに思えることが、今の私には何よりの贈り物です。

今日は2度目の投稿です
いつも魅力的なメッセージを送ってくださる韓国の先生がいますが、今朝はある本よりとても興味深い内容のものをシェアしてくださったので、私もそのままこちらに貼り付けることにしますね

昔に比べて、今はあらゆる食べ物飲み物に砂糖が使われています。そのあたりについて書かれていらっしゃいます

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“私たちの先祖は13世紀まで砂糖なしで生活してきた。
14世紀までは石炭がなく、牛乳、卵、小麦粉などで練って作ったパンは15世紀にもなかった。 ジャガイモは16世紀までなく、コーヒー、お茶、スープは17世紀、プリンは18世紀、マッチ、電気は19世紀まで見られなかったものだった。 そして、缶詰は20世紀になってやっと出た商品だった。 しかも汽車、自動車、飛行機はいつから登場したのか。”
李ウエス(著)「象に羽をつける」(ヘネム、20ページ)の中

大量消費社会である現代は「それを持てば幸せだ」と延々と広告をしています。それを持てる人は能力のある人です。 ところが、それがなくても生きる能力を持った人は、より大きな能力を持った人です。 ベルリン芸術大学のハン·ビョンチョル教授は、今日をデジタル心理政治の時代と規定しています。 「心理政治」は「したい」という欲望を創り出し、私たち自らを自発的に搾取させる隠密で洗練された新自由主義統治術だそうです。
私たちは好きなようにしたいことをして、見たいものを見て、消費したいものを消費しながら、本当に自由だと感じます。 このような構造の中で、より多くの消費満足のために死に物狂いで資本に奉仕します。
自由のために自由を犠牲にするアイロニーだということです。 コンセプトアートアーティストのジェニー·ホルザーはこんなことを言いました。
「私が望むことから私を守ってくれ!」

自分自身の願いから、厳密に言えば自分の欲望から解放されたかったのです。 必要と欲望は異なります。 神様は必要を満たしてくれ、欲望を満たしてくれる方ではありません。 信実な礼拝と祈りを通じて必要と欲望を区別し、欲望の奴隷ではなく、自由者として生きなければなりません。

「すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇は、父から出たものではなく、世から出たものである。 世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる。」(ヨハネの第一の手紙2:16、17)

人は誰でも、ふと「ひとりぼっちだな」と感じる瞬間があります。

人に囲まれていても、心の奥では誰にもわかってもらえないような気持ちになることもあります。


孤独は、とてもつらいものです。

でも「孤独を感じること」と「本当にひとりでいること」は違います。

たとえ心細くても、あなたは決して一人ではありません。


あなたを大切に思い、見守っている存在が必ずあります。

友人や家族かもしれませんし、目には見えなくても、心の奥であなたに寄り添っているものかもしれません。


「わかってくれる人がいない」と思えるときこそ、心にこの言葉を置いてみてください。

――あなたは、大切に思われ、決して一人ではないということ。




📖 「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28章20節)



気づかないうちに、心の中がいっぱいになってしまうことがあります。

仕事のこと、家族のこと、人間関係のこと…。

頭の中であれこれ考えすぎて、心がパンクしそうになると、息をするのも苦しくなるものです。


そんなときは、すべてを一人で抱え込まなくてもいいんです。

紙に書き出してみる、誰かに話してみる、静かに深呼吸してみる…。

それだけで、心の中の「荷物」が少し軽くなることがあります。


大切なのは「完全に解決すること」ではなく、「心に少しスペースを作ること」。

余白ができると、不思議と新しい力や気づきが入ってきます。


心がいっぱいになったときこそ、自分にこう言ってあげてください。

「ここで立ち止まっても大丈夫。少し休んで、また歩き出せばいい。」




📖 「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもって願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人知を超えた神の平安が、あなたがたの心と考えを守ってくれます。」(ピリピ4章6–7節)



平日朝4時おきの習慣が身について7年になる。
かつては朝起きが苦手で、高校生時代には「社長っ」と言われてしまうほど、出勤 いや登校時間が遅いことも少なくなかった。夜ならずっと起きていられたし、何をするにも捗ると信じていた。
ところが通う教会では平日毎朝5:20より早天礼拝をやっている。早朝とはいえ車で30分はかかるので、4:50には家を出なくてはいけない。
ある時、祈り課題が大きく夜眠れないまま、この早天礼拝に行ってみた。
まさに、素晴らしいメッセージのシャワーを浴びたかのように、身体中が喜びに満ち溢れてしまった。その日のうちに祈りの課題が気にならないほど心が満たされ、しかも 朝焼けという美しい景色、満月というご褒美つきとくれば、翌日も行きたくなるのが当然。 それからはほぼ毎朝
教会に通う習慣が身についた。

前にもアップしたが、尊敬するブライアントレーシー先生のご本に、「かえるを食べてしまえ」があるが、まさにそれである。
やるべきことは一番先にしてしまう、といったニュアンスの本だが、今までに味わったことのない充実した一日に始まりとなったのは言うまでもない。
冬などはまだ、月や星が輝く真っ暗な空の下、エンジンをかけて出かけるのだから、暖かいほうじ茶の入ったタンブラーは必須。
冷蔵庫と化した車内では到着するまで分厚いダウンは脱げず、まるでスキー場にでも向かうかの如くではあるけれど、賛美と祈りと素晴らしいメッセージに恵まれる時間が待ってると思うだけで、ワクワクは止まらない。
もちろん、今日は行かずにwebでメッセージを聴こう言う日もあるが、、結局は教会で直接得る恵みに比べたら、雲泥の差。
また、頑張って早起きしよう!! となるのだ。

誰でも、習慣を変えるというのは、本当にやり甲斐がありすぎて、実行に移しにくい。また、絶対に変えなくちゃいけないわけでもなければ、なおさらである。
ただ、変えた先に想定外の宝が隠れていることが多いのは間違いない。

ことしは、そんな意味でも タイムマネジメントを改め、御言葉の朝シャンを浴びてから始まる毎日をさらに楽しむとしよう。

2024年、少ないけれど良い出会いに良い影響を受け、いつになくやる気に満ち溢れてる幕開けとなっている。

⭐️皆様にとっても躍動的な素晴らしい一年となりますよう、お祈りします。
今年もよろしくお願いします。

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